結婚2年目の春、私たち夫婦の元に新しい命がやってきた。
「出産は冬かぁ、寒い時期だから暖かい服揃えておかないとね」
エコー写真を見ながらうれしそうに笑う夫、修平。そんな彼の様子を見て、私も思わず口元がゆるんだ。
「名前も考えなくちゃ。名付け辞典、あした買ってくる!」
「まだ性別も決まってないんだよ?ちょっと気が早すぎなんじゃ…」
「いや、俺たちの子どもなんだから早いも遅いもないよ!時間をかけて考えてあげよう!」
キラキラと目を輝かせる修平を前に、彼と結婚してよかったと改めて思う。
だから、これから舞い込む小さな嵐など、このときはちっとも知らなかった。
- 主な登場人物
- 私:この物語の主人公
- 修平:「私」の夫
- 後輩:修平が教育係を担当する、入社したばかりの後輩女性
最初の接近

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次の日帰ってきた夫は、名付け辞典のほかにもサプリメントやら入浴剤やら、薬局で何やらたんまり買い込んできていた。
「どうしたの、それ」
パンパンに膨らんだエコバッグを両手に1つずつ抱え、ぜぇぜぇ息を切らしながら帰ってきた修平に私は驚いた。
「妻が妊娠したんだってぽそっと後輩の女の子に話したら、めちゃくちゃアドバイスくれてさ。妻のケアは夫の役割ですよ!っていうから、アドバイス通りいろいろ買ってみたんだ」
「後輩の女の子?上司に話す前に後輩に話したの?」
「ああ、いま俺が教育係やってる子でね。今年入ってきたばっかりなの」
「一番最初の報告をそんな、新人さんにしたの?」
「嫌だった?」
「いや別に、いいけど…」
「この栄養素はね、赤ちゃんの成長に欠かせないらしいよ。それでこっちの入浴剤は、その子がおすすめしてくれた。身体をあっためるのがいいんだって。それからこれは…」
帰宅早々商品を広げ出す修平は、とにかく赤ちゃんの誕生を楽しみにしているようだった。
「その子、ずいぶん妊娠について詳しいのね。必要な栄養素まで知ってるとか、私より知ってるじゃん」
「お姉さんが昨年子どもを産んだみたいで、そのときにネットで調べたんだって」
「ふーん」
「アドバイスしたお礼に、今度夫婦円満の秘訣教えてって言われちゃったよ。いやぁ、なんだか照れるよねぇ」
先輩に対してだいぶお節介だけど、こういう子が可愛がられるんだろうなと素直に思う。人との距離を縮めるのがうまくて、先輩を立てるのも忘れない。世渡り上手な子なんだなと、このときはただ思っていた。
後輩の「相談」が始まった日

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その日、お米を炊くにおいがどうしても気味悪く、ひどく具合が悪かった。
「これがつわりってやつか…」
ベランダの窓を開けて、米の匂いを外に逃がす。
「ご飯大好きなんだけどなぁ」
スマホをひらいて、修平にメッセージを送る。「いつ帰ってくる?」と。返事はすぐに来た。
「…え?飲み会?」
それは、「職場の人と飲みに行くことになった、本当にごめん!2時間で帰る!」というものだった。
修平が飲み会に行くことなど滅多にない。年に1回、忘年会の時期だけだ。頻繁に飲みに行くわけでもないから、私も「嫌だ、行かないで」なんていう理由もない。むしろ会社の人と交流しなくて大丈夫なんだろうかと不安だったから、もう少し飲みに出かけてくれてもいいくらいだ。
だから「楽しんできてね」なんて文章を添えて、可愛いスタンプ付きでメッセージを送ったのに、私はそれをひどく後悔することになる。
「えっ、じゃあその後輩の女の子と飲んできたの?」
2時間きっかりに帰ってきた修平は、少し頬を赤らめながら皿洗いをしている。
「うん、仕事の相談に乗ってくれって言われてさ。あ、同僚の松永わかる?あいつもいたよ」
松永さん。結婚したときにずっとほしかった圧力なべをプレゼントしてくれた彼だ。顔と名前が結び付き、彼がいるならいいか…と言いかける。
「仕事の相談って、何」
「んーなんか、うまくいかないんだと。いま任せられてる仕事、上司からの指示が曖昧らしくてなかなかうまくいかないんだって」
「そんなのその上司に相談したらいいじゃない」
「それがさ、堅物なやつなんだよ。いつもムスッとしてて話しかけづらいっていうか…いいやつなんだよ?でもその子にしたら、とっつきにくいらしくて」
「ふーん…だからって、なんでそれを修平に相談するの?」
「ああ、この間出産準備についていろいろアドバイスくれたから、お礼言いに行ったら『相談したいことがあるんです』って」
なんだかモヤモヤとした気持ちが湧き上がってきて、不安になる。なんだその女。
「なんか、嫌だな」
ボソッと呟いた声は修平に届いていなかった。
たかが後輩の相談に乗ったくらいでヤキモチを妬かれたら、修平にとってはめんどくさいだろう。
別に職場の人と飲みに行くのも、そこに女性がいるのも、大してこれまで気にしたことはなかった。
でもその女が急に出産のアドバイスなんてして近づいてきて、さらに相談したいことがあるなんて言って距離を詰めてきた。その自然すぎる近づき方が、どうにも気味悪かった。つわりでぐったりしている妻を置いて、そんな女と楽しく飲み会してきたという事実にも腹が立った。
「まぁなんとか解決したみたいだからさ、よかったよ。俺も頼りにされるようになったんだな~」
「そうだね、よかったね」
その女、なんか下心ない?
そんな本音を言えぬままそっと心に隠し、私はいつものように修平に笑いかけるのだった。