りん、26歳。私には、5年経ったいまでも忘れられない人がいる。彼と最後に会ったあの日のことは、いまでも鮮明に思い出される。これは、いまから5年前の話。
私はこの日、多分もう恋に落ちていた

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高校を卒業してすぐに、私は北海道から東京に引っ越してきた。大学に通うため、一人暮らしをスタートさせたのだ。
実家では妹と同じ部屋で自分の部屋なんてなかったから、きょうからここが自分だけの空間だなんて、それだけで最高にうれしかった。早くかわいいインテリアをそろえなくちゃ。東京にはIKEAとかフライングタイガーとか、おしゃれなお店がたくさんあるんでしょ?インスタでずっと追っかけていた、あのモデルさんも住んでるんだよね?ドキドキが止まらなくて、多分飛行機のなかからずっとニヤけていたと思う。
引越しのお兄さんを見送ってダンボールを開いていると、部屋の隅に黒いものが見えた。近づくとサササッと動き出すソレは、実家では見たことのないアイツだった。声も出ないまま転がるように玄関を飛び出して、アパートの階段を駆けおりる。
「あの、どうかした?」
声に気づいて顔を見上げると、背の高いお兄さんが立っていた。どうやら私、下の階の廊下で尻もちをついてたらしい。
「ご、ごめんなさい…邪魔でしたよね」
「ううん、そんなことないんだけど…あ、もしかしてゴキブリでも出た?」
途端に顔から血の気が引いていく。名前を聞いた瞬間さっきまで目の前にいたアイツが現実のものになってきて「本当は夢だったんじゃない?私の見間違えじゃない?」なんて幻想をかき消していく。
「ちょっと待ってて、俺に任せて」
お兄さんはそういうと自分の部屋からスプレーを持ってきた。どうやらアイツを退治する便利グッズらしい。私があわあわしているうちにお兄さんは私の部屋に入って行って、壁を這い回っていたアイツをすぐに仕留めてくれた。
「念のためバルサンとか炊いといたほうがいいかもね。っていうか引っ越してきたばかりだったの?初日から出くわすなんて、運がいいのかもよ」
ニコニコ笑うお兄さんの顔を見て少しホッとする。さっきまでの恐怖と冷や汗が落ち着いていく。
「俺、下の階に住んでるからさ、また何かあったら呼んでよ。あーっと、名前は?」
「りんです」
「りんちゃん、よろしくね。俺はゆうき」
お兄さんが部屋を出て行った後、私はすぐお母さんに電話した。後日菓子折りを持って部屋を訪問した私を見て、ゆうきくんはお腹を抱えて笑っていた。
「ゴキブリ退治でこんなお菓子くれるなんて、俺当然のことしただけだから!丁寧すぎて面白いわ、俺の周りにはいないタイプ」
それでも私には、あなたが正義のヒーローに見えたんです。嬉しくて嬉しくて、できればもっとなかよくなりたいなって自然に思ったんです。多分一目惚れだった。心臓があんなに大きく踊りだしたのは、今後の人生でもあの日が最後だったと思う。